2006.09.02 Sat
「装幀談義」菊地信義:本
会社のデスクには、家から持参したデザイン関係の資料本が何冊か置いてある。いつか仕事に使うかもしれないと思って並べてあるのだが、結局ほとんど使っていない。最近、何気なくそれらの本から1冊抜き取って、パラパラと読んでみたら、とても興味をそそられる事が書かれていた。
手に取って読んだのは、菊地信義氏の「装幀談義」という本である。これは、著名な装幀家である菊地信義氏が、自分の装幀プロセスを詳細に語った内容を本にしたもの。本の装幀は彼自身が行っており、今から約20年前の1986年に出版されている。僕は出版された当時まだ美大に通う学生だったが、かなり感動して何度も繰り返し読んだ記憶がある。
今見ると恥ずかしいが、気になる文章の部分には、たくさんの線や記号が書き込まれている。本を開いてじっと眺めていると、当時の記憶が走馬灯のように沸き起こってくる。20年前の記憶は明瞭で、つい最近のような気さえしてくる。タイムスリップして昔の自分と出会ったような、少し不思議な気分だ。

「装幀談義」菊地信義
さて、本題にはいろう。特に文芸のジャンルで活躍している菊地信義氏は、この本で次のような事を語っている(文章そのままの引用ではなく、読んだ内容を僕なりにまとめさせてもらっている)。これはかなり専門性の高い装幀デザインの秘術に触れるものだと思うが、何かを表現している人なら分かってもらえるかもしれない。
「装幀の究極の役割というのは、人の目をとめさせるという事である。それでいて、理想の装幀は、そのとめさせられた理由が分からないという状態だ。何か、わけは分からないけど、ふと目にとまったという感じ…」
「本という器は、人の心を沸き立たせるものではなく、静かで真に孤独な、読む人の心を鎮めてくれるものを盛るのに向いている。」
「本の装幀は内側から作る。まずはテキストを読まないと始まらない。読みながら浮かんでくる素材のイメージ、書体のイメージ、色のイメージ、図像のイメージを理想の目標に向かって定着させていく(これは一貫していて、常にテキストを素材、書体、色、図像、の4つのアイテムで読んでいる)。」
「本というのは“手の中で始まるドラマ”だ。触覚的なものから自由になれない、一種のオブジェだと思う。」
「文芸書の装幀というのは、そのテキストに対するイラストレーションや解説でありたくない。つまり、テキストの構造でありたいと思っている。」
「本屋では、色、図像、マチエール、文字、の順で人間の感覚に入ってくるのではないか。色や図像、マチエールに引かれて何となく近づき、最終的に文字という記号で具体的に知覚するのではないか。」
「認識した時、何か空白というか不安のようなものが生まれて、それを埋めるために行動に移るのではないか。」
「文芸書の図像は、引きつけられるけど読んでみなくては分からない、という状態が望ましい。答えが出ていてはいけない。逆に、ハウツー本の図像は、目にした時にテキストを読まなくても答えが出ている状態が望ましい。」
「絵は原寸で使う。原寸で見えてきたコンセプトを失わないために。縮小せずにトリミングして使う。」
「色に関しては戦略的に、何色か名前が分からない色を積極的に使いたい。単純化され記号化され使い回された色ではなく、古来から日本人が持っている色彩感覚を活かしたい。」
「視線をはじかず、中に引き込むために、本を落ち着かせるために、原色ではなく少しグレイッシュな色を使う。」
「色は絶対的なものではなく、時代と供にうつろいゆく、相対的なものだ。」
「レイアウトは瞬発力だ。精神が研ぎすまされている必要がある。」
「集めてきた4つの素材は、観念だ。レイアウトはその観念を捨てて、独自の形を作る最も大切で楽しい作業。」
「レイアウターというのは古いラテン語で“墓掘り人夫”を意味する。」
「本は心を作る道具。」
本文では具体的な作例をもとに、もっと具体的で奥深く巧妙な、彼の様々な手口が語られている。このように、僕が気になった部分だけを書き連ねると、彼が本来伝えたかった内容とは食い違ってくるかと思う。この本が気になると思った方は、ぜひご自分の心で直接体験していただきたい。
この本は既に絶版になって久しいらしく、ネット上で新刊を見つける事はできないようだ。文庫化されていたが、そちらも絶版になっている。が、幸い古本としてはまだ流通しているので、少し探せば入手可能だと思う。
今回改めて彼の装幀プロセスをたどってみて、一つ引っかかった事がある。作家の作品を読み込んで、心がとらえた「質感」を、装幀に必要な4つのアイテムで表現しようとするのだが、その「質感」というのが、最近気になっている「クオリア」と近いものじゃないか?という事だ。「クオリア」に関しては、改めて僕なりに考えてみたいと思っている。
◇多摩美術大学 美術学部 芸術学科 客員教授として
紹介されている菊地信義氏のプロフィール
今見ると恥ずかしいが、気になる文章の部分には、たくさんの線や記号が書き込まれている。本を開いてじっと眺めていると、当時の記憶が走馬灯のように沸き起こってくる。20年前の記憶は明瞭で、つい最近のような気さえしてくる。タイムスリップして昔の自分と出会ったような、少し不思議な気分だ。

「装幀談義」菊地信義
さて、本題にはいろう。特に文芸のジャンルで活躍している菊地信義氏は、この本で次のような事を語っている(文章そのままの引用ではなく、読んだ内容を僕なりにまとめさせてもらっている)。これはかなり専門性の高い装幀デザインの秘術に触れるものだと思うが、何かを表現している人なら分かってもらえるかもしれない。
「装幀の究極の役割というのは、人の目をとめさせるという事である。それでいて、理想の装幀は、そのとめさせられた理由が分からないという状態だ。何か、わけは分からないけど、ふと目にとまったという感じ…」
「本という器は、人の心を沸き立たせるものではなく、静かで真に孤独な、読む人の心を鎮めてくれるものを盛るのに向いている。」
「本の装幀は内側から作る。まずはテキストを読まないと始まらない。読みながら浮かんでくる素材のイメージ、書体のイメージ、色のイメージ、図像のイメージを理想の目標に向かって定着させていく(これは一貫していて、常にテキストを素材、書体、色、図像、の4つのアイテムで読んでいる)。」
「本というのは“手の中で始まるドラマ”だ。触覚的なものから自由になれない、一種のオブジェだと思う。」
「文芸書の装幀というのは、そのテキストに対するイラストレーションや解説でありたくない。つまり、テキストの構造でありたいと思っている。」
「本屋では、色、図像、マチエール、文字、の順で人間の感覚に入ってくるのではないか。色や図像、マチエールに引かれて何となく近づき、最終的に文字という記号で具体的に知覚するのではないか。」
「認識した時、何か空白というか不安のようなものが生まれて、それを埋めるために行動に移るのではないか。」
「文芸書の図像は、引きつけられるけど読んでみなくては分からない、という状態が望ましい。答えが出ていてはいけない。逆に、ハウツー本の図像は、目にした時にテキストを読まなくても答えが出ている状態が望ましい。」
「絵は原寸で使う。原寸で見えてきたコンセプトを失わないために。縮小せずにトリミングして使う。」
「色に関しては戦略的に、何色か名前が分からない色を積極的に使いたい。単純化され記号化され使い回された色ではなく、古来から日本人が持っている色彩感覚を活かしたい。」
「視線をはじかず、中に引き込むために、本を落ち着かせるために、原色ではなく少しグレイッシュな色を使う。」
「色は絶対的なものではなく、時代と供にうつろいゆく、相対的なものだ。」
「レイアウトは瞬発力だ。精神が研ぎすまされている必要がある。」
「集めてきた4つの素材は、観念だ。レイアウトはその観念を捨てて、独自の形を作る最も大切で楽しい作業。」
「レイアウターというのは古いラテン語で“墓掘り人夫”を意味する。」
「本は心を作る道具。」
本文では具体的な作例をもとに、もっと具体的で奥深く巧妙な、彼の様々な手口が語られている。このように、僕が気になった部分だけを書き連ねると、彼が本来伝えたかった内容とは食い違ってくるかと思う。この本が気になると思った方は、ぜひご自分の心で直接体験していただきたい。
この本は既に絶版になって久しいらしく、ネット上で新刊を見つける事はできないようだ。文庫化されていたが、そちらも絶版になっている。が、幸い古本としてはまだ流通しているので、少し探せば入手可能だと思う。
今回改めて彼の装幀プロセスをたどってみて、一つ引っかかった事がある。作家の作品を読み込んで、心がとらえた「質感」を、装幀に必要な4つのアイテムで表現しようとするのだが、その「質感」というのが、最近気になっている「クオリア」と近いものじゃないか?という事だ。「クオリア」に関しては、改めて僕なりに考えてみたいと思っている。
◇多摩美術大学 美術学部 芸術学科 客員教授として
紹介されている菊地信義氏のプロフィール
| 映画・音楽・本 | 05:55 | comments(0) | trackbacks(0) | TOP↑


